H部長の指揮する先行開発部門の部員たちは自らが課題を設定して取り組むようになった。かつてのようなやっつけ仕事観はない。
自主テーマとして、超圧縮ガソリンエンジンの研究を選んだ。
世界一の車をつくるというプロジェクトチームとの関係は、この時点ではまだ繋がっていない。
エンジンは車の心臓部だ。
その仕組みは、シリンダーと呼ばれる円柱形の空洞内で、空気とガソリンから成る混合気を、ピストン(円形状の部品)で圧縮して点火する。その爆発エネルギーにより、ピストンが押し下げられ、そこで生じる運動エネルギーを駆動力として動く。
圧縮比とは、混合器を吸い込むためにシリンダー内の容積が最も大きくなった状態と、それを圧縮して点火する前後のもっとも小さくなった状態との比率を表す数値である。
圧縮比が大きければ大きいほど、得られるエネルギーも大きくなる。
現在の乗用車の標準的なそれは、1:10前後、価格が1000万円以上の高性能車では1:12前後が普通だ。
超圧縮エンジンの目標値は、圧縮比を1:15にすることだ。1世紀以上かけて、やっと1:10までになりえた技術、それを一気に1:15にまで上げる。
とてつもなく非常識な想像だった。
また、何よりも、まずゴール設定であるということを如実に物語っている。
では、なぜ超圧縮エンジンにこだわったのか。ハイブリッドエンジンに対する疑問があったからだ。
ハイブリッドエンジンは優れた燃費性能をもたらすエンジンである。バッテリーを組み込み電気を利用している。
しかし、バッテリーを組み込んでいる分、ガソリンエンジンよりコストが余計に掛ってしまう。したがって、車体価格もその分高くならざるを得ない。
購入時の価格差を消費する燃料価格の差で埋めようとしても、平均的な所有期間や走行距離ではとても埋まらない。
また、バッテリーにはリチウムイオンが使われており、実はこれは再利用できないという技術的な問題がある。
廃棄されたバッテリーは一定の場所で保管されるしかない。実は、あんまりエコではなかった。
話がそれるが、ハイブリッドはエコだというのは、原子力はクリーンエネルギーだという比喩に通じるものがあると感じるのは私だけだろうか・・・。
また電気自動車に関しては普及はまだ先だろう。満タンで200キロ走ると言われているが、これをリッター30キロ走る車であれば、7リットルのガソリンでことが足りる。
7リッターで満タンになるようであれば、近所の買い物か通勤程度でした使えない。高価な車を買ってこの程度では費用対効果にすぐれない。
さて、H部長の開発な部隊は、一歩一歩粘り強く研究を進めていた。
そんな研究開発も10年続こうとしていた。周辺の技術開発環境水準も飛躍的に向上した。この頃になると、徐々にではあるが部員たちもプロジェクトチームから技術的なアドバイスを求められるようになっていた。
だが、内心は「今まで何も考えていない企画の人たちが、いきなり革命的な発想を思いつくわけないでしょ」と冷やかに感じていた。
H部長曰く「社内は誰も知れない。本部長でさえ関心がない」。
そんな孤独の作業が続けられたのも、ゴールを達成したいという想いがあったからだ。というよりも、本当はエンジンが好きだからだ。
そんなおり、思いもよらない人事異動が発令された。
続く