内部表現の書き換えと臨場感の生成 ~個人的体験から~

内部表現と臨場感について私自身の経験を書きます。

私はブログでも書きましたが、かつてコーチの認定書を破ってみました。

最初の方はとくに気にしていませんでしたが。時間が経つにつれ、なんか悪いことをしたのかなと思うようになりました。

なので、あまりこの件について考えないようにしていました。

まあ白状をすると、気になっていたのでたまに意識に上がっていました。

専門的な話になりますが、手形が無くなったので、情報空間にあるコーチング情報場にアクセスできなくなり、非言語の効きが悪くなるのかなと感じたこともあります(実際は、そんなことはなかったと思いますが)。

そんな時は、情報へアクセスできないのはおかしい、というか『正規ルートで入れない道から入っていくのが○○』というセルフトークで対処していました。
※情報場についての説明は省きます

でも、やっぱりなんか引っかかるものがありました・・・。

つまり、認定証を破ったために、自分のコーチングの効きが悪くなるという内部表現に切り替わり、そこに少しながらホメオスタシスがフィードバックしていたのです。

このような臨場感が生成されました。いうならば、いわれのない恐怖。幽霊と同じです。

内部表現とは、視神経などの器官を通じて得た情報の脳内処理。

簡単に言えば、私たちが認識している世界そのもの。変性意識が強くなった時に、ある方法等で書き書き換わりやすくなります。

一度書き変わってしまえば、私たちに備わるホメオスタシス(恒常性)が新しい内部表現とフィードバックをとり、私たちが認識している世界の在り方を変えます。

例えば、幽霊について知識がない人に幽霊は見えません。

しかし、内部表現に幽霊という情報を書き込めば、その人は幽霊が見えるようになります。

ホメオスタシスが、幽霊が見える世界をつくりあげ、幻覚が見えるように働きます。気が弾けた音がラップ音に聴こえたり、りんが燃えてたりしているのを火の玉と認識するようになるのです。

言い換えれば、(脳が認識している)世界を書き換えるということです。

ついでに、コーチングではよく、ゴールから観れば全ては必然と言いますが、それは必然となるように解釈しているからです。

達成したゴールに対して辻褄が合うように、出来事を再解釈しているに過ぎません。

場合によっては、記憶を捏造することさえもあります。これもホメオスタシスの仕業です。

人間の脳はエネルギーとスペースを割いて、日常的なできごとのすべてを記憶にたくわえようとしないものだと考えている(その記憶情報が一度も引きだされなかった場合は、とくに)

注意力を錯覚して重要で目立つものは注意を引くはずだと思い、実際は見落とすように、記憶に関する錯覚でも自分で記憶していると思うものと、実際に記憶しているものとは食い違う。なぜ人は短期記憶に限界があることはすぐに理解しながら、長期記憶の性質を誤解するのだろう。注意の錯覚は、自分が見ると予想したものと、実際に見たものとが異なる場合に生じる。そして記憶の錯覚は、自分が記憶したと考えているものと、実際の記憶とが異なる場合に生じる。
クリストファー・チャブリス (著), ダニエル・シモンズ (著),木村 博江 (翻訳) 『錯覚の科学』 文藝春秋。

さて、先ほどの話の続きですが、良く考えたら認定書を破って罪悪感を覚えるのは、そもそもコーチングの理念に反している気がしました。

「自帰依自灯明、法帰依法灯明」

(中略)

究極まで突き詰めても自分の拠り所は、何らかの現実世界に制御さえた自分自身であるということだ。
苫米英人著 三才ブックス 『洗脳護身術』。

拠り所とするのはあくまでも自分自身。コーチングはあくまでも道具に過ぎません。

この道具は使われるのではなく、使うためにあります。

(この話に関連して、コーチングを受けたら、コーチが何とかしてくれると考えている人がいるようですが、その姿勢では効果は半減以下になります。反対に、自分が主軸と気が付けば、威力は絶大なものとなります)

また、

私が主催する苫米地ワークスでは、かつてこんな話題を出したことがあります。家の仏壇にある祖先の位牌をクラスに持参して、それを全員の目の前で割る。

しかしこれを実際に行った人は一人もいません。全員が全員、「そんなことをすれば、罰が当たる」とか、「亡くなった親に対して申し訳が立たない」と思い込み、そうすることができないのです。私がさらに位牌を割るように強く促すと、まるでカルト集団の親玉を見ているかのようにどん引きする受講生さえいます。

私の意図は、全員が例外なく囚われているいわれのない恐怖を取り除き、自由になるためめの第一歩を踏み出させることにあるのですが、受講生たちは「そこまでしなければ自由になれないのか」とでも言いたげな反応です。

私に言わせれば、位牌はただの板です。

板を割ったところで、罰が当たるわけがないし、死んだ親への敬意を疑われるはずもありません。だいいち、板を割るだけのことですから、「そこまでしなければならないのか」という認識そのものが、まったくの間違いです。

ただこういうことをいうと私がカルトだと噂を流されて、現在ではこの課題は出していません。
苫米地英人著 『まずは、(信じる)ことをやめなさい』アース・スター・エンターテイメント。

この引用を目にして、私の中のわだかまりが氷解しました。

そもそも私も紙を破ったに過ぎません。

コーチングの腕が落ちるとか、いわれのない恐怖に取りつかれていた私は、まことに馬鹿げていたと振り返ります。

だけど、この記述を見つけるまでは、そのような臨場感があったのは事実です。

しかし、上の引用を読んで、また内部表現が切り替わりました。

つくづく人間は臨場感の世界に生きている。何を信じているのか、確信がリアルになると感じます。

この記事を読んで、何かいわれのない恐怖に苦しんでいる人は、もう一度その恐怖の正体を疑ってみてください。

また、ゴールの世界に臨場感を感じれば、それがまたリアルとなります。多くの人は、記憶の連続性という過去に主軸を置いています。

しかし、ゴール側の記憶に臨場感を置けば、世界はその様に広がっていきます。ホメオスタシスがそちら側とループします。また、その現実は脳内現象に過ぎません。

いうならば妄想です。だったら好きな妄想を楽しめばいいということです。

ちなみに、いわれのない恐怖から解放された私の今の挑戦は、一撃で書き換えるです。