広島に本社を置く自動車メーカーマツダのお話です。
「世界一の車をつくる」という雰囲気が徐々に社内で浸透してきた。
しかし、ここにきて大きな障壁があった。
親会社フォードとの関係である。
1996年、バブル崩壊後を皮切りに始まった経営危機に苦しんでいたマツダは、第三者割当の株式を発行した。アメリカの自動車会社フォードがこれを買い支え、同社がマツダの33.4%の株を保有することとなった。フォードによるマツダへの事実上の経営権掌握である。それ以降、2010年の提携解消まで、フォードのお伺いを立てながら経営をしなければならない状況にあった。
フォードは規模の経済を追求する会社だ。大量生産によって一台当たりのコストを下げる。また、開発した技術を傘下の企業へ流用して、エンジンをはじめとする車体の共通化をはかり世界規模でのコスト削減を図るという経営戦略だ。
考え方は「アマング ザ リーダー」市場で先頭集団に入る車をつくれば合格であり、あくまでも、費用対効果を重視していた。
マツダの車といえども、フォードの課した厳しい制約の中での車の開発、生産をせざるを得なかった。こんな状況が何年も続くとそれが当たり前となり、同社のコンフォートゾーンになっていた。
こんな状況では到底世界一の車なんてつくることは出来ない。まずは、その制約を取っ払わなければならない。コンフォートゾーンを抜けなければならない。
そこで、プロジェクトリーダーは単身、フォードの本社デトロイトに乗り込んだのだ。
プロジェクトリーダー「マツダの方針を受け入れてほしい」
フォード幹部「No. というよりエンジンの効率を上げる?そんなことは出来るわけないだろ。馬鹿げている」
こんな交渉が続いた。それでも引き下がらないプロジェクトリーダーに対して、フォードの出した回答は「資金も実力もないマツダがそこまでいうのなら、好きにしろ」だった。
No.とは言われなかった。ただし、それはたとえ失敗してもフォードは一切助けないという意味でもあった。
この粘り強い交渉からは、あきらめないことの大切が分かる。
マツダは1960年代、それまで世界のどこの自動車メーカーも開発できなかった当時の最先端技術『ロータリーエンジン』を唯一モノにした実績がある。
ロータリーエンジンンの開発に関わる人達も、業界からは無理、社内からも予算の無駄と見なされていた。しかし、そんな不安と焦燥に耐えて開発を決して諦めずに技術をもの歴史がある。
飽くなき挑戦のDNAは受け継がれていた。
続く
https://youtu.be/O0ikW7pVa_I
参考文献
宮本喜一著 『ロマンとソロバン』 株式会社プレシデント社 2015年
※アイキャッチ画像は、ロータリーエンジンを開発した技術者たち。通称ロータリー47士。マツダHPから借用。